寒い、と彼は言った。
叶わなかった願いに告げる
彼の願いを自分は叶えてやるべきだったのだろうか、今でもそのことについて考えることがある。彼はあの時自分にすがって寒いといった。寒い、さむいと泣いた。彼は必死だった。それくらいは自分にだって解っていた。
『寒いの。』
叫ぶような彼の声は今でも忘れることができない。
『寒いの。ねぇ、寒い。』
彼はカタカタと小刻みに震えるようにうずくまっていて、そして泣いた。そのとき自分はどうすべきか全くわからなくて(あぁ、自分はあまりに無知だった。彼の気持ちを解ってやれなかった。)ただ、ここのところ彼があまりに食が細いことばかりを気にしていた。暖房をつけようか?そのようなことを彼にたずねながら、そんなことを彼がのぞんではないことくらい自分にも解っていた。案の定彼は自分の言葉に絶望したように顔をあげて、緩く首を振るだけだった。彼は震えていた。自分の腕の中で震えていた。
『ドイツと、離れたくない。』
震えながら、彼は言った。その声は酷く切羽詰まっていて、自分はただ馬鹿みたいにそれを聞くことしかできなかった。
『俺は、ドイツが好きなの。性別もなにもかも超えて好きなの。でも、ドイツは俺のことそうじゃない。それがもう嫌。寒い、さむい、ねぇ、俺のお願いきいてよ。』
あぁ、どう答えたら良かったのだろう。自分は確かに彼のことが好きだった。しかし、それは確かに友情であって、それ以上ではない、と思っていた、少なくともその時は。あぁ、それでも彼に好きだと、自分も好きだと言ってやるべきだったのだろうか?いや、きっとそれも不正解だろう。彼はそんな見え透いた嘘に付き合ってすらくれないだろうから。彼は俺の手を掴んで、それから絞り出すように一言告げた。
『殺して。』
俺は、その願いを叶えられなかった。
ふと思う。彼の願いを自分は叶えてやるべきだったのだろうか。どれだけ考えてもその答えはでては来ない。でては来ないが、しかし解ることもある。自分は彼が生きることを望んでいた。彼のことを友情とは別の意味で愛していたかと聞かれれば、それは今でも疑問符しか残らない。しかし、彼には生きていてほしかった。彼の笑顔を思いだす。自分の思い出の中で、あの時を除いて彼はいつでも笑っていた。ふわふわと春のように笑っていた。そんな彼のことが自分は愛しいと、そのくらいは思っていた。その笑顔を曇らせたのが自分なのだとすれば、やはり自分にも非はあるのだろう。それでも自分は彼に笑っていてほしかった。それだけだった。
あれからしばらくたって、姿を見せない彼を案じた自分が、彼の家を訪ねたとき、彼はもう遠い遠いところに、自分の手の届かないところに旅立った後だった。だから、自分は結局彼に何も伝えられなかった。あの時伝えられなかったこを、何も言えないまま。
「生きていて、ほしかった。」
冷たくなり始めた風にのせてそう呟く。寒い、という彼の声の残響が耳に響いた。
できれば今、君が寒くなければいい。