ホワイトピンクな夜はいらない
彼は普段とても明るく元気よく振舞っているから、おそらくほとんどのものは彼のこんな姿を知らないのだ。夜中にいきなり尋ねてきた彼は何も言わずに俺の家のテレビの前に陣取った。何をするでもなく、黒のリモコンを握る。パチパチとチャンネルを無意味にいじくって、それから溜息。リモコンを投げ捨てて彼は呟く。つまらない。
「英語の番組はないのかい?」
「・・・ここは俺の家だぞ。」
「俺はドイツ語なんかわからない。」
なら来なければいいのだ。ソファの少し後ろから彼を眺める俺の苦労をコイツは気づこうともしない。ただ、深く腰掛けたソファの上から無意味にテレビを眺めている。テレビのスピーカーから流れるのは2年ほど前にヒットしたバンドの曲だ。ドイツ語が流れていく。彼はどのくらいその歌詞を理解しているのだろう。彼の金色の髪が電子の光を乱反射して顔に微かな影を作った。その表情は硬い。
「何かあったのか?」
俺の質問に彼はソファの背中越しにこちらを軽く睨んで、それから何も言わずにまたテレビに向かった。彼がここに来るのは初めてではない。初めてここに彼が来たとき、俺は酷く驚いて(彼と自分の国交上の関係はあまり良好ではないのだ) それでも追い返せなかった。追い返すにはあまりに悲痛すぎる雰囲気で立っていたから、だから追い返せなかった。彼はそのときも何も言わなかった。言わずに、言葉もわからないテレビをぼんやりと見つめていた。彼に何かあったのは確実で、だからこそなぜかそれ以上の詮索はできなかった。
俺は諦めて奥のキッチンに向かう。彼は多分何も言わないだろう。コーヒーをマグカップに二杯入れて、片方にだけたっぷりとミルクと砂糖を入れる。アメリカは普段ブラックをのんでいるが、ミルクと砂糖を入れたものの方が本当は好きなのだというのはみていればすぐにわかった。背伸びをしている。子どもと一緒だ。
マグカップを二つもって、リビングに向かう。彼はまだテレビの前に座っていた。ちかちかと瞬くテレビの電光。
「コーヒーを・・・。」
そのテレビの光に俺は眉をひそめて、そして彼にマグカップを差し出そうとしたとき、俺は漸く気づくのだ。液晶の画面を見つめる彼の目が明らかに通常より多すぎる水膜に覆われていること。彼が普段とは似ても似つかない表情で座っていること。俺は何もいえなかった。彼は身動き一つしない。テレビを見つめるのは虚ろな視線だ。彼はゆっくりと口を開く。
「迷惑だろう?俺は。こんな時間に来るなんて。」
「・・・いや。」
「迷惑だろ?怒ればいいんだ。怒ればいいんだよ。」
「・・・迷惑、ではない。」
彼は振り向いて、それからこちらを見た。ぽたり、目から落ちる雫。
「うそつきだな、君は。」
ぽたぽた、涙は止まるところを知らない。彼は何も言わず頭を振って、それから白いクッションに頭を埋めた。彼は何もいわない。彼に何かあったのは明白で、だからこそ俺は何もいえない。何もわからない。けれど、一つだけ解ることもある。
「コーヒーを、飲むといい。」
多分、彼がここに来たのは、自分と彼の間に深い関係がないからだ。彼の過去も何も自分は知らないからだ。ここでなら、
多分、彼は強がらなくていいからだ。
彼は何も言わずに差し出されたマグカップを受けとる。そして、その中身を見て、やっと少しだけ笑うのだ。
「・・・カフェオレなんて、子ども扱いは止めてくれよ。」
その顔は、泣き顔をみられまいとしている子どもと変わらないことに、彼は気づいているのだろうか。
泣き方を知らない彼と甘やかし方を知らない彼と。