ブルー・ブルー
記憶を持つのが怖いのだと彼は言った。
記憶は怖いと。
彼はしばしば苦しそうに眉を顰めることがあった。
それは道を歩いているその時だったり、夜半の寝台の中だったりした。
ようするに、自らがどこにいるかは関係なかったのだ。彼の苦しみは場所には関係なかった。
ただ、ふと気づくと彼はつらそうに顔をしかめていた。
記憶というのはとても重いのだと彼は言った。
記憶はとても容量をとっていくのだと。
彼はそういうとき自嘲ぎみに笑う。俺はその笑顔が好きではない。
俺は黙って彼を抱きしめる。彼は何も言わずされるがままにしている。
記憶などなくなればいい。そういう彼に異変が起きたのは一か月ほど前のことだった。
彼はそのとき、よくわからない行動をしていた。
普段、彼は事前に様々なことを考えて行動する。
だから彼の行動には無駄がない。はずなのに、その日の彼の行動は支離滅裂だった。
無意味な行動を繰り返し、呼びかけにも答えない。
俺は焦って彼を揺さぶった。彼はされるがままになっている。それが酷く嫌だった。
しばらく後、彼は憑きものが落ちたように普段の彼に戻った。
ただ、おかしくなっていたその間の記憶はなくなっていた。
彼はそれからときどきそのような風になるようになった。
俺は心配したが、彼はなんでもないのです、とひとことで済ませてしまう。
また、彼はとても良く眠るようになった。彼は不眠気味だったのでこれは良いことのようにも思えた。
結局、俺は何も言えなかった。
もう少したって、彼の症状がどうやら改善してきているらしいことに気づいた。
彼の意識のとび方は減り、また眠りも通常レベルに戻ってきている。
俺はとても喜んだが、彼は悲しげな顔をしていた。
「記憶が怖いのです。」
彼はまた呟いた。
そんな時だった。事件起きたのは。
俺はその時彼の家にいた。別にこれは珍しいことではない。
自分は彼に精一杯の気持ちを伝えたのであり、彼はそれを快く受け入れたとは言い難いかもしれないが、少なくとも拒みはしなかった。
だからたまに俺はこの家に来る。ただ、その日は少し様子が違っただけだ。
「−−−−!!!!」
金切り声のような叫びが向こうの部屋から響いたのだった。
俺が慌ててかけていくと彼が床に座ったまま泣いていた。
足元に青の錠剤が転がっている。
彼はそれを握りしめたまま泣いていた。
俺は漸くそこで悟ったのだ。彼のあの不可思議な行動はこの薬の副作用だと。
これは眠気を誘う薬だが、その効き目がそれほどない代わりに体質によって一時的な健呆と夢遊病のような状態をもたらす。
俺はあわててその手をはじいた。
彼は涙を流したままその薬を取り落とした。
「何してるんだ!」
俺の叫びに彼は首を振った。
振って、弱弱しく俺の手を掴んだ。
「効かないのです。」
彼は言った。
「薬が効かないのです。」
耐性ができてしまったのだ。俺は悟った。
何も言わずに俺はその薬を片づける。
彼が薬を乱用したこと自体が悲しいのではなかった。
ただ、彼が俺を含めてこの世界を拒絶していることが悲しかった。
いつのまにやら泣いていたらしい、濡れた俺の頬に触れながら彼は話す。
心のたけを俺に話す。
「記憶が怖いのです。何をしていても、どこにいても、それは私をさいなむのです。
私はあなたが好きなのです。好きだからこそ、過去の記憶が苦しいのです。私は貴方が好きですが、それでも記憶をなくしてしまいたい。
消えてしまいたいのです。」
ごめんなさい、と彼は言う。俺は彼を抱きしめた。
手から青い薬がこぼれおちる。一面の青の中で俺と彼は抱き合っていた。
彼はごめんなさいと繰り返す。
彼は囚われてしまったのだ。幾多もの戦争と長すぎる国としての生の中で死にとらわれてしまったのだ。
自分とて長く生きてきた国であるからその気持ちが理解できないはずもない。
それでも自分は彼に同意できなかった。
彼がどれほど死にとらわれようと自分はそれにうなずけなかった。
彼を失いたくななかった。
一面の青の中で自分たちは息づいている。彼を抱きしめた。
体温だけは確かに本物で、愛してるという呟きに彼がまた泣いたのが解った。
あぁそれでも君が好きだから、エゴでもなんでも彼を手放せやしない。