オーストリアとハンガリーの場合
賛美歌
狭い地下室の中はお世辞にも居心地がいいとは言えなかった。
一回溜息をついて、ハンガリーは回りを見渡す。
暗い部屋の中にはピアノと食べ物と水が少し。それっきり。それ以外何もない。
小さな部屋。
椅子代わりの木箱に腰かけるハンガリーの前で、オーストリアがピアノをひいている。
ショパンだったっけな、とぼんやり思う。たゆたうようなピアノは聞いていて心地よい。
世界が終るのだ、とわかってから、世の中は大きく変わってしまった。
街はたちまち喧噪に包まれて、道端にはいくところのない子供が泣く。
割られた窓ガラス。あふれだす凶気。
仕方ない、とハンガリーは思う。
誰だって死ぬのは怖いもの。
ぽーん、と一回長い音が響いて曲が終わる。
ハンガリーはそれに気づいてぱちぱちと拍手。
目の前でオーストリアが笑った。
「何か、曲のリクエストはありませんか?」
「…え?え、あー…えと、」
いきなりリクエストといわれても曲名が出てこない。
慌てたハンガリーを見てオーストリアは一回笑う。
そのまま鍵盤に指を滑らせた。
柔らかい音が響く。ハンガリーはちょっと赤くなったまま俯いた。
恥ずかしい。曲名出てこなかったじゃないの、私の馬鹿!
ピアノの音が響く。
世界が終わるとわかって、世の中が喧噪に満ちて、その現実から逃げるようにここを訪れたハンガリーに
オーストリアが提案したのは、この地下室で暮らすことだった。
『街があまりにうるさすぎますからね。』
オーストリアは楽譜をまとめながらそう言った。
『それに、地下ならばもしかして隕石の衝突の衝撃にも耐えられるかもしれません』
ハンガリーは小さな地下室を見た。
こんな作りの甘い地下室で衝撃が防げるなんてそんな馬鹿なことはないはず。
否、そんなことはきっと目の前の彼だってわかっているんだろう。
きっと彼がしたいのはそんなことじゃない。
オーストリアの奏でるピアノの上、二つのペンダントが鈍く輝いていた。
お揃いの十字架。イタリアとドイツがつけていたもの。
これをこの地下室で初めて見たとき、ハンガリーは聞いた。
『どうして、これがここにあるんですか?』
そういえば、あの二人を最近見ていない。
『あの二人に、なにか…!』
オーストリアは、何も答えなかった。
答えずに、ただ、首を振った。
『彼らが幸せだったなら、それで良いのです。』
ピアノの音が響く。
きっと彼は、ここで祈っているのだ、とハンガリーは思った。
この世界のことを、人々のことを、そしてあの二人のことを。
不意に、曲調が変わった。
聞いたことのある旋律。
ハンガリーは顔をあげた。
あぁ、これは、賛美歌。
ピアノを弾いているオーストリアがハンガリーの方を向いていた。
ゆっくり、とメロディーが響く。
「歌ってくれませんか?」
ハンガリーは目を閉じる。この歌は礼拝の時、イタリアが良く歌っていた。
思い出すのは幸せな日々。
奇麗な青空。響いたピアノの音。
走ってくる幼い二人。
ハンガリーは立ち上がった。
大きく息を吸って、歌いだす。
幸せな日々は多分もう来なくて、あまりにも多くのものが消えうせてしまっていて。
もう、私たちにできることはきっとこれくらいなんですね。
ピアノが響く。ハンガリーは歌い続けた。
この世界に向けて、自分の大切だった何かに向けて。
これが、自分たちに与えられた最後の仕事というのなら、やり遂げようと思った。
ピアノの音と、歌声と、それぞれに乗せた小さな祈りは、喧噪の街の空へと溶ける。
祈りましょう、大切だった全てのために