日本は人魚という設定です。設定上どうしても私的に譲れず、日本のことを彼女、という表記にしましたが、女体化としなくても十分に読める内容となっているので、苦手なかたでも大丈夫だと思います。


























ゆらゆら揺れる水底に、一人の人魚がおりました。


水底の人魚は哀情を知りました。


彼女はいつからそこにいたのかそれすらも知らず、ただ気づいたらそこにいたのでした。彼女の目に映るのはただ暗い水と泳ぐ魚の姿のみ。あぁ、それが彼女の全てでした。彼女は何も望むことはなく、だからこそ彼女は全てをもっていたのです。望みないものに失望もまたないのでした。彼女の誇りはその濡れたような黒い髪でした。そればかりが彼女の誇りであり、存在価値でした。人魚などは孤独なのです。彼女たちは魚でありながら魚になれず、人でありながら人ではなく、どちらにもなれず、どちらにもなりきれず、その狭間で存在するのです。彼女は暗い海に沈みます。その目はどこか遠くを見るように黒く光りました。

海の上は、今日もあわただしくヒトがすれ違うのです。ヒトはもともと陸の存在でした。昔むかし、ヒトは海で生活することをすてました。そして陸を手にしたのです。それにも関わらず、そう、傲慢なヒトどもは海をもまた欲しました。希望を持たないものは全てを持ちえるのと同様に、希望ばかりを追い求めるものは何も持ち得ないのです。ヒトはまさにそうでした。彼らは全てを持っていたのに何も持ちえていませんでした。彼らは海へと乗り出しました。神を崇めながら、その誓いに背き海を欲しました。
彼女の上をもヒトは通ります。ヒトが通るたびに彼女は少しだけ顔をしかめて深く海のそこで眠りました。ヒトが出す明かりが嫌いでした。ヒトは海を汚していく、それが嫌いでした。海の上をヒトが通ります。それは、単なるそのような一日になるはずでした。秋も深まったある日の夕暮れ時、深く潜った彼女のもとに聞きなれない大きな音が聞こえてきたのです。それはとても大きく、どん、どんという海鳴りのような音でした。彼女は急いで海面近くまで上がりました。海面はぎらぎらと明かりでまぶしく、目が眩みそうな感覚。音を共に海に落ちてくる眩しくて熱い何か。丸いなにか。それが弾丸だということも彼女は知らず、ただ、見慣れた海の異様さにおびえました。その身をひるがえし、海に潜ろうと彼女は考えました。寝て起きればきっとそこはもとの海だろうと。彼女だけの、失望も希望もない世界。あぁ、しかし、それはかなわなかったのです。上から、彼が落ちてきたから。ざぶん、と音を立てて落ちてきた彼は丸くも熱くもなく、ただヒトの形をして力なく海に沈みました。

彼女が振り向くと、彼はちょうど沈み行くところでした。彼の髪は日に照らされキラキラと綺麗に光ります。彼の髪は抜けるような金色でした。彼女はそんな髪の色を始めてみたのです。腕に抱きとめた彼は動くこともなく彼女に抱かれたまま、瞬間、彼女は気づきました。ヒトは海の中で生きることができない。慌てて彼女は海面から顔を出しました。彼を抱き上げてなんとか顔を海面に出します。遠くではまだヒトが争いを続けていました。ただ、片方はとても慌てているようでしたが。
彼女は彼を見つめます。彼は見れば見るほど綺麗な金色の髪をしていました。自分の黒とは対照的なその色。ぼんやりと眺めていると、彼のまぶたが緩く動きました。驚く彼女の前で目を開く彼。

「…誰だ?」

とたん、彼女は一瞬手を離してしまいました。がぼ、と音を立ててもう一度沈みかけた彼を慌てて彼女が支えます。彼女はそれでも慌てていました。彼の目が、目が、綺麗過ぎるほど綺麗な緑をしていたから。彼は左目に眼帯をつけていて、片目しかみえなかったのですが、それでもどうしようもないくらい綺麗です。彼はあわてたようにしがみつきながら、悪い、と一言言いました。彼女は首を振ります。彼は言いました。

「俺は、イギリスという。船で他国へ渡ろうとしたが、敵国船に狙われた。理由はわかる。以前に似たようなことをしたことがある。自業自得だ。」

彼女には「ふね」も「てきこく」も何もわかりませんでした。ただ、彼女はその髪を肩に張り付かせたまま、頷いていることしかできません。彼はまた尋ねました。

「名は、なんだ?」

名、なまえ。彼女は詰まります。名前。そういうものがあるということはさすがに知ってはいるものの、彼女には言うべき名前などなかったのですから。彼女は気づけばここにいました。名前など、ない。黙る彼女に彼は笑いました。不思議な人だ、と笑いました。

「だいたい、こんなところに女がいるってことがおかしい。そうだ、お前に名前をやる。ジパング。昔の人が、金にあふれた幻の国を見たといった。それがジパング。幻の島だ。」

笑った彼の緑の瞳は沈んだ光を受けてとても綺麗で、彼女はぼんやりと頷きました。ジパング。心の中で復唱します。彼女もまた、笑いました。生まれて初めての笑いでした。彼女の心に微かな希望が生まれました。それは淡く小さな思いでしかなく、それでも初めての希望でした。そして、それは、幸せになりたいと、この人といたいと、また会えたらいいと、それだけで、それでも彼女を暖かく染めたから。
彼は左目につけていた眼帯を取って、彼女に手渡しました。礼だ、と笑いました。両目になった緑はやはり綺麗でした。

ふと彼女はあることに気づきました。笑いながら彼がうつら、とまた眠り始めている。彼女は慌てました。これは、衰弱した生き物のすることだと彼女は知っていたからです。衰弱した生き物はうつらうつらと眠り、そしていつか眠りから覚めなくなる。彼女は知っていました。この付近に島があること。そして、そこに彼を置いていけば、朝までにあの船の人々が彼を助けに来てくれること。彼女は、決断しました。


小さな島の、小さな浜辺に彼を横たえ、彼女は息をつきます。少し目を伏せて、少しためらって、それから、

彼の薄く開いたままの唇に、生まれて初めてのキスをしました。

「さようなら。」

濡れた黒髪を揺らして、彼女は海に消えました。



次の日から、彼女は待ち始めました。彼がここを通るのを、もういちど通るのをずっとずっと待ち続けました。彼女の心には小さな希望がありました。それが全てでした。彼女の周りには以前と変わらない風景がありましたが、もう彼女の手には何もなくなっていたのです。その彼女の持つ小さな希望が彼女の持つ全てを何かにそめて持ち去っていったからです。彼女は知らなかったのです。何かを望む、その代価を。それに気づいたときには遅すぎました。彼女は深く深く海に潜ります。ひたすら、ひたすら祈りました。手にあの眼帯一つを握って。

「彼が、彼がもう二度と、あのような目にあいませんように。どうか、どうか、この海がヒトの仕打ちを見逃しますように。どうか、どうか。」

この、気持ちが彼にとどきますように。

「すきでした。」



黒髪を波にゆらしながら、一人の人魚が静かに海に消えました。




数年のときが立って、静かに凪いだ夜の海の上を一艘の船が進んでいました。船の上は今日も喧騒に満ちています。そこに乗る男が一人、甲板に立って海を見つめています。彼の髪は透くような金色で、その目は綺麗に緑に光っていました。彼は少し寂しそうに海を見つめます。その海は深く、ふかく、どこまでも黒く。

彼は首から提げた十字架にそっと口付け、一瞬の間のあと、その十字架をともに赤い薔薇を一輪海へと放り投げました。

黒いくろい、彼女の髪のような濡れた色の海に赤い薔薇が一輪、綺麗に咲き誇りました。





人魚の祈りを乗せた海は今日も、静かに凪いで、彼を乗せていきます。







忘れていない。君のことは。