01,こびりつくナイトメア



かたり、小さな音がする。
浅い眠りにたゆたう頭はその物音に反応した。
日本はゆっくりと目を開ける。暗い。まだ夜だろう。

肘をついて起きあがる。肌にまとわりついたのは微かな寒さだった。
自国ではもう暑いくらいなのに、と日本は思う。
これが、ロシアという国なのだ。寒さのなか、短い夏を待つだけの国。
頭を軽く振りながら見た隣にはシーツの皺ばかり。
共に寝ていたはずの人は痕跡だけをのこしていなくなっていた。

かたん、また、小さな音。
見れば、廊下へと続く扉が開いたままになっている。
音はこの先か。

あぁ、

日本は小さく息を吐く。

また、なんですね。




廊下の先、光が漏れていたのはキッチンだった。
かたん、中から音。

あぁ、また、


「また、眠れないのですか?ロシアさん。」


目の前1メートル。いきなり開かれた扉に驚いたように金色が揺れた。
手には透明の液体の入ったグラス。


「…珍しいね、日本がこんな時間におきるなんてさ。」


薄ら笑いながらロシアはグラスをテーブルに戻す。
がたん、
大分酔っているのかもしれない。ふらついた手で置かれたグラスは存外大きな音を立てた。

「…そのグラスの音があまりに大きかったものですから。」

日本の返答にロシアはくすくすと笑う。
そうかな、と小さく呟いた。

「それでも、普通はこんな音じゃあ起きないよ。日本って凄いよね。」

笑いながらグラスに透明の液体をまた注ぎ込む。
瓶のラベルを見た。ウオッカ。
ほとんど空になっている瓶を見て、日本は顔をしかめた。
飲み過ぎだ、いくらなんでも。
グラスをそのまま煽ろうとしたロシアを慌てて止める。
なんで止めるの?と不満そうなロシアの顔。


「…いくら貴方でも、飲み過ぎです。」

「…これくらい普通なんだけどなぁ。」


言いながらも、ロシアはあきらめてくれたようだった。
グラスの中身をこぼさないように器用にくるくるとグラスを回す。
くるくるくる回るグラス。

しん、と静まりかえった部屋は寒々しい。


「ロシアさん。」

「何?」

「…眠れないから、こんなにお酒を飲むのですか?」


くるくるくるくる、グラスは回る。
ロシアは答えない。

「眠れないから、こんな」

「そんなこと、聞いてどうするの?」

いきなり、ロシアはグラスから、手を離す。
グラスはふらふらとまわった後、テーブルから落下した。
がちゃん、
割れる大きな音が響く。
日本は思わず一瞬身をひいた。
辺りにたちこめるのは強い酒の香り。


「聞いて何が楽しいのかな?」

「…楽しくなんかないです。私は、ただ、」

「ただ、何?ただ僕の助けにでもなりたいのかな?そうだとしたら、」


座ったままのロシアが日本を見上げてくる。冷たい目だった。


「君はずいぶんとお人好しだね。」


そんなだから、僕みたいなのにひっかかるんだよ。

くすくすくすくす
ロシアが笑う。

思わず、日本は顔をしかめた。
そんな言い方は、ない。
反論をしようと口を開いた、その瞬間、

いきなり立ち上がったロシアが日本に手を伸ばした。
そのまま、口付け。

「−っ!」

反論しようとした言葉は喉の奥に吸いこまれる。
漏れたのは、くぅ、という小さな呻き。
たっぷり30秒はある口づけが終わるころには、日本の息は上がってしまっていた。

はぁはぁ、

テーブルに手をつけ肩で息をする日本を見ながらロシアは笑う。
日本を馬鹿にしているような、それでいて自らを嘲るような、そんな笑み。


「ねぇ、教えてあげようか?僕は眠れないわけじゃないよ。僕は、そうだね、眠るのが怖い、のかな?
眠ると、全てが消えてしまいそうに思うんだ。今僕を支えてるすべてがね。
ねぇ、こんなこと聞いて君は楽しいのかな?君はどうしたいのかな?ねぇ」


笑う、ロシアを見て日本は思う。
この人はさびしいのだ、と。ずっと前から、そして今も。

息を整えながら、日本はなんとか顔をあげる。
こちらを見ている金色と視線がぶつかった。


「ロシアさん、」

「何?」

「もし、私が、なにがあってもそばに居ると言ったら、貴方はどうしますか?」


日本の言葉に金色の瞳が驚いたように見開かれる。
一瞬の空白。
ロシアの顔から笑顔が消えた。下を向く。それから、小さな舌打ち。


「…うそつきは、嫌いだって言うだろうね。」


吐き出すように言った言葉はしんと響いた。
ロシアはそのまま走るように日本の横を去っていく。
ばたん、と後ろで扉のしまる大きな音。


…寂しいのだ。

一人残された部屋の中、日本は思う。

彼は、さびしいのだ、こんな寒いところであまりに長く一人でいすぎたから。
人を信じることもできず、それでもどこかで信じたくて。


さびしいのだ、でもきっとそれは、自分だって同じこと。

視界が滲んで、そこで初めて自分が泣いていることに気づいた。
そんな自分に苦笑する。


目を閉じながら、早くこの国に暖かい夏がくるといいと、そればかり祈った。