久しぶりに会ったあの人は、私のことを怯えたように見たのでした。
子供の時間 A
「こんにちは。」
私が彼を訪ねたとき、彼は床にぺたりと座りこんで絵など描いていたものだから、
だから私もしゃがみこんで、ゆっくりと彼に話しかけた。
以前は私を見れば陽気に話しかけてきた彼は、しかし、今はゆっくりと紙から顔をあげただけ。
わたしのこと、おぼえていますか?なるだけ優しくそう続けたのだけれど、彼は答えようとはしない。
一瞬ののちに彼の顔に浮かんだのは怯えだった。駆け足で向こうへと行ってしまう。
その先に、困ったように立っている長身。ドイツさん。
「…イタリア、日本に悪いだろう?」
優しい言葉にも彼…イタリアさんは何も答えようとはしない。ふるふる、と首を振ると、少し長くなった茶色の髪が揺れた。
仕方ない。今の彼からすれば、私は髪の色も肌の色も違う、ただの異国人なのだから。
「すまない、日本。イタリアは記憶が。」
「いいですよ。仕方のないことです。」
床の上に、描きかけの絵。以前彼が描いていたものに比べて、それはあまりに乱雑なものだったけれど、色遣いや線は美しい。
記憶も何もかもをなくしてなお、やはり彼は彼なのだ。
ドイツさんの長身に隠れるように、彼はこちらを覗き込んでいる。
彼が子ども返りしたのだと、聞いたときには驚いた。
長い戦争の後にヨーロッパの皆さんとはほとんど関係を絶っていた私にはその理由も解らなかったし、なにより想像がつかなかったということがある。
私の記憶の中で彼はいつでもにへら、と笑う優男でしかなかった。
目の前で彼は庭先から室内に入ってきたらしい小鳥に夢中になっている。
もう私から注意はそがれたのだろうか。子どもらしい考えの切り替わり。
彼を見つめている私に気づいたのか、ドイツさんが苦笑する。
「…何か、飲み物でも出そう。座っていてくれ。」
大きな窓から差し込む光が暖かい。
大きめに作られたテラスを見ながら(前にはこんなテラスはなかったから、作ったのかもしれない)ドイツさんと二人でお茶を飲む。
白い磁器のカップの中身はアップルティーだった。それに気づいて顔を上げた私に、ドイツさんが笑う。
「イタリアが、其れが好みらしいからな。」
それしかないのだ、と笑うドイツさんは少し痩せたようだ。
テラスで、イタリアさんが大きな紙にクレヨンを走らせている。
痩せるのも無理はないことだ。彼は子ども同然なのだ、世話にも手がかかるだろう。いや、
(大きい分だけ、大変でしょうね)
きゃあ、と外から楽しそうな声。
描きかけの絵をそのままに、イタリアさんがどこかへ駆けていく。
見えなくなる茶色。
「いいんですか。放っておいて。」
「…庭の入り口は閉じてあるから大丈夫だろう。20分たって戻らなかったら迎えに行けば良い。」
白いカップをかきまぜながら、深く息を吐くその顔にうすらと陰が出来ていて、私は、
私は不意に何か苦虫でも噛み潰したように気分に襲われるのだ。
彼は、ドイツさんは、
疲れている、それも酷く。
この家に二人きりで、彼は多くものを犠牲にしてこの暮らしを立てている。
確かにイタリアさんにはドイツさんの存在が必要で、そしてイタリアさんがこうなったことにドイツさんが多少なりなにか責任を感じているとしても、
この状態はあまりに彼には酷ではないか?
「ドイツさん、」
気づけば、私は声をかけていた。
「なんだ?」
「ドイツさん、彼を、イタリアさんを、どこかに預けてはいかがですか?」
遠くにイタリアの笑う声が聞こえる。
全てを忘れた、笑い声。
「施設に、というのは極論ですが、たとえば、フランスさんやスペインさん、ロマーノさんなどと手分けして面倒を見ても良いのではありませんか?
別に貴方がすべてを背負う必要はないのです。少しは自分のことも気をつかって、」
「いや、構わん。」
私の声を遮ったのは、静かな、でもはっきりをした低音。
テーブルの向こう、白いカップに手をつけたままの彼は薄く笑って口を開く。
「イタリアが、幸せなら、これで構わないと思っている。」
「しかし、それではあなたが。」
「日本の気持ちはありがたいが、気にしなくても良い。」
彼は、笑った。笑いながら、カップの中に砂糖を混ぜ込む。
口を出すな、と言われた気がした。
他人の生活に口を出すな、と。
遠くからイタリアさんが駆けてくる音がする。
「どいつ、どいつ、えがね、かけたの!」
白い大きな紙に描かれていたのは、一面の黄色。ひまわりの花。
「上手いじゃないか。」
「うまい?」
笑う二人をテーブルをはさんで見つめる。
不意に、私は気づいてしまった。
彼らは、幸せなのだ。イタリアさんは、
こんなにも愛されている。
「日本にも、見せてやれ。」
「にほん…?」
絵を抱えたままこちらを振り向く彼に向かって、私は笑顔を作りだす。
ひきつらないようにするのが手一杯だった。
イタリアさんは私に向けて、はにかんだような顔をしながら絵を見せてくる。
大きく書かれたひまわり。荒さの中に息づく才能が見え隠れしている。
思わず漏れたのはため息。あぁ、本当に、
「上手い、ですね。」
「あいがと!!」
本当に、彼は幸せだ。
日はだいぶ傾いてきている。
白いテーブルクロスの向こうで、イタリアさんは白いカップに口をつけていた。
ドイツさんが砂糖を入れていたのは彼に飲ませてあげる為だったのだろうか。
彼は嬉しそうに笑っている。
嫌なことを全て忘れて、大きな愛に包まれ、陽だまりの中で生きる彼。
そんな彼を羨ましいと、思った自分を心の中で叱咤する。
この世のしがらみをすべて捨てて、愛する人に愛されるなら、そんな、そんな素敵なことはない。
彼は、すべてを忘れることで、全てを奪っていってしまった。
紙の上にひまわりが私を嘲笑っているようで、小さく零した舌打ちは誰の耳にも届かず消える。
このイタリアとドイツは共依存起こしていると思われ。
全てを忘れるなんて、こんなずるいことはない