Far far away
「どこか遠くにいきたいねぇ。」
ふらふら彼は足をゆらして、ふらふら彼は私に語る。私は黙って下を向いて、ただただペンを走らせる。レポートの提出期限は近い。そろそろ仕上げないといけないのだ。
「どこか遠くにいきたいねぇ。ねぇ、誰も俺のことしらないようなそんなところへいきたいねぇ。そうは思わない?」
彼はとても気まぐれで子供じみていて、そして自由だ。ふらふらと足を動かしながら彼はこうやって私のそばで語るときがある。彼はけして私に返答は求めない。私はそれに甘んじてこの場に存在する。
「俺、時々思うんだ。全てを捨てて、遠くに行きたいってね。日本はそうは思わない?なにもかもを捨てて遠くに行きたいとは思わない?」
彼は私を覗き込むように見つめて、レポートには彼の影が落ちた。私は黙って下を向いて、ペンを走らせた。彼は返答を求めない。私はそれを甘んじて受けている。彼は私から目をそらして、また何か呟きだした。レポートの提出は近い。もうそろそろ本気を出さないといけないのだ。
「ねぇ、日本。」
それは一瞬だった。彼の手は私の右手を捉えて、不意打ちを食らった私は思わずペンを取り落とす。カタン、ペンは軽い音をたてて落ち、私は軽く目を顰めて彼へと目を向け、そこで私は思わず出しかけた抗議を飲み込むのだ。彼は今までにない目をしていた。私を泣きそうな目で見ていた。昼下がりの空気は淀んで揺れて、私は何か布を丸めて口に放りこまれたような酷い吐き気に襲われる。私の前で彼は笑った。酷い顔だった。
「どこかへ行こうよ、遠くへいこうよ、どこか遠くに行こう?」
彼はこちらを見ていて、それでも私の頭は澄んでいた。彼が私を選ぶなんて!そんなこと自体がまずはおかしい。彼にはもっと大切な人がいるはずなのだ。いるはずなのに。
彼は笑っていた。酷い顔だった。
あぁ、私は不意に気づく。
そうか、私よりもっと大切な人がいるからなのだ。いるから私は選ばれたのだ。あたりさわりのない私だから選ばれたのだ。馬鹿げている。こんなことは馬鹿げている。酷い吐き気は消えていた。代わりにどうしようもない空虚感ばかりがそこにあった。
「…お一人でどうぞ。」
払いのけた手の先で彼はまた酷い顔で笑った。
「冷たいね。」
「貴方ほどじゃないですよ。」
私はペンを走らせる。彼はまだふらふらと足を揺らしてそこにいた。彼は呟く。呟き続ける。
「どこか、遠くに行きたいね。」
私は答えない。レポートの提出日は近い。私はペンを走らせた。
本当に君についてきてほしかっただけなのに。