僕らは生命の形を知らない



「穴、開けてくれないかなぁ?」

彼がいきなりそう言ってきたとき、私はちょうど経済学の本を半分読み終わったところで、だから一瞬何を言われているのかわからなかった。不審そうに見上げた私に彼は耳を指差して、それからピアスだよ、と笑った。指先に在る彼の右耳にはもう既に4つ穴が開いていて、それでもまだ開けるということらしい。傾きかけた日の光の中で私は本を広げたまま彼の話を聞いていた。軟骨のところにもう一つ開けたいのだそうだ。

「そんなにたくさん開けて、まだ開けるのですか?」
「うーん・・・まぁ何事も多いほうがいいじゃん。」

意味がわからない。眉をひそめた私に彼は困ったようにまた笑う。開けてよ、彼の呟きはどこか懇願めいていた。私は本に栞を挟む。

「病院にいけばよろしいのでは?」
「病院嫌いなんだもん。匂いもいやだし、それに白いから。」
「白?」
「真っ白なのは嫌いなの。病院なんて血とかたくさん出てるはずなのに表だけ無意味に白いでしょ?あぁいうの、嫌いだからさ。ねぇ、いいでしょ?日本しか頼める人いないんだよね。」

本を閉じた私の手に彼が握らせたのは大振りの安全ピンだ。こんなもので開けるのだろうか。普通ピアッサーではないのか?彼は私の座っているソファーの前にしゃがみこんだ。軟骨に、開けてほしいんだ、彼は指差す。断ろうかと一瞬考えて、それでも私の手は確実に安全ピンを彼の耳に向けていた。ピアスを開けるという行為に対し興味が沸いたということも否めないが、それよりなにより彼の主張が、病院の白を禍々しく思うその思いが、私をなぜか酷く納得させてしまったからだ。白いばかりの場所は嫌いだ。命は往々にしてグロテスクで醜い。それを全て清潔な白で覆うあの場所は私も好きじゃない。彼は座り込んだままこちらに背をむけている。私は安全ピンを握った。

「初めてですから、上手くいかないかもしれませんよ?」
「いいんだよ、目的はただ開けることだもん。上手さなんて求めてない。」
「膿むかも。」
「いいよ、慣れてる。」

笑うその彼の耳にいくつか膿んだような傷跡があることに私はその時気付いたのだった。醜い痕。ふさがりかけた穴の末路。それでもあぁ、この醜い痕のほうが綺麗すぎるばかりの生命よりもよほど美しいだろう。慈しむようにして私はその塞がりかけた傷口のそのわずか数ミリ上に安全ピンを押し当てた。ためらうのはきっと双方にとってよろしくないに違いない。私は血管の浮き出た彼の耳に針の先端を押し込める。手に存外強い抵抗。それでも無理に押し込めれば、小さな音を立てて針は彼の耳を通り抜ける。その瞬間、彼は小さく声を上げて、それでも確かに微笑んだ。流れる血をどうしていいかわからず、戸惑う私を彼は右手で制して、自らの指で血を拭う。そんなことして雑菌は入らないのだろうか。それに、そんなことをしていてはすぐに塞がってしまうのでは?私の忠告に彼は笑った。

「開けるのが目的だから、その後はどうでもいいんだ。」

安全ピンを未だ握ったままの私の手が彼に握りこまれる。私はまだ血がでたままの彼の耳を見ていた。えぐれたような傷口はお世辞にも綺麗ではない。それでもそれは酷く動的だ。有機的で、ひたすらに生命だ。彼は私の耳をなぜる。

「日本は処女耳なんだねぇ。ねぇ、開けてみない?俺、開けてあげるよ?」

耳の軟骨あたりをなぜる彼の手はただただ優しい。私の目の前に彼の耳があった。赤に汚れた耳があった。何の気はなくそれを口に含む。鈍い鉄味がした。生命の味だと思った。穴に舌を押し当ててえぐる。彼は痛い、と言って、それでも咎めはしなかった。彼は私の頭を抱くようにしがみついて、私の耳をそっと食む。私の耳にも穴が開いたらどうなるのだろう。衛生的でない安全ピンで穴をあけて、その穴はゆっくりと膿んで閉じていく。膿んで、汚れて、生命を叫ぶ。彼は耳元で囁いた。

「開けない?」

私は目を閉じて、彼の耳の穴に舌を這わせて、私の答えはもう決まっていた。

「痛いのはいやですね。」

その瞬間、彼は今日一番の笑顔を浮かべて私の耳元で笑ったのだった。






だからキミとボクは違うんだ。