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「それで、こんどは何をしにきたんですか?」

柔らかなオーストリアさんのバリトンの声を聞きながら、目の前の紅茶に口をつける。ここに来るのは久しぶりだ。独立してからここにはあまり来なくなってしまっていたから。前は毎日見ていた景色はそれでも心になじむ気がする。壁にかかっている絵は昔のままで、それを見ながら、少し笑った。うん、今日はいい気分。ここにきて良かった。

「ちょっと会いたくなったから来たの。」
「まだそんな甘えたような考えで生きているのですか?本当に貴方は。」

口調は厳しいけれど、彼の顔は優しいから、許されていると思う。彼は実際のところ酷く優しい。紅茶は昔飲んだ味と変わっていなかった。
彼の部屋にも、写真立てがいくつか飾っている。昔の俺たちの姿がそこには写っていた。それははじめは絵で、それから写真に変わる。そこに写っている俺は酷く幸せそうだ。昔の俺、スカートをはいて、箒をもっている。そうだ、このころ俺はスカートを履いていた。頭を巡らす。途中から、ズボンになる俺。反対にスカートのままのハンガリーさん。

あれ?

「ねぇ、オーストリアさん。」
「なんでしょう?」
「俺、なんで途中から男の子の格好しだしたんだっけ?」

一瞬、彼の動きが止まった。

「貴女は国として未熟ですから、男として生きる方が有利だからですよ。」
「でも、昔は女の子の格好してたのに。」
「昔は、私が貴女を守ることもできたでしょう。だから、大丈夫だったんです。私の力も弱くなってくる。守りきるのが大変になってきたからですよ。」

それだけ言うと、彼は話は終わりだと言わんばかりに目を伏せてしまう。動きが止まったのはほんの一瞬だった。彼の話に矛盾点はない。でも、感じ始めた違和感はぬぐえなかった。じっと写真を見つめながら俺は考える。俺が男の子の格好を始めた時期が、少しおかしいんじゃない?神聖ローマはもういなくなっていたときだけれど、でもこのときまだオーストリアさんの力はフランス兄ちゃんよりは強かった気がする。

紅茶のカップごしに見るオーストリアさんはもう無言でカップに口をつけているところだ。こうなったら多分もうこの話題は続けても無理。オーストリアさんは意外に頑固でこういうところは絶対に譲らないタイプだから。俺も紅茶に口をつけながら、ぼんやり考えてみる。俺の記憶がない時期は男の子の格好を始めた辺りなんじゃないだろうか。それより少し前のことはちゃんと覚えている。俺は神聖ローマが行ってしまって酷くひどく悲しかった。それより少しあとも覚えている。慣れないズボンが気持ち悪くて嫌だった。ない、ない、記憶がない。男の子の格好を始めたあたりのことが。なんでだろう。解らない。わからない。不意に、夢のことを思い出した。あの夢は、この記憶のない部分のことなんじゃない、だろうか。

「…そうだ、オーストリアさん、あのね、言いたいことがもう一つあった。」
「なんですか?またくだらないことでしたら怒りますよ。」
「いや、あのね、最近、嫌な夢を見る。」

その瞬間の、彼の表情は多分俺は忘れない、と思う。
それくらい彼の表情は凍っていた。カップを見たまま、固まっている。その表情は酷く怖かった。まるで、何かに怯えているみたいに。少し心配になって、伸ばした俺の手が彼に触れる、その寸前に前に目を伏せた彼は話し初めていた。

「それは、どんな夢ですか?」
「…覚えてない、です。」
「何も、覚えてないのですか?」
「え、と、何もじゃないけど、」
「内容を言いなさい!」

きつい口調に思わずびくっと体が跳ねた。カップが肘にあたって、少し紅茶がこぼれる。それを見て、彼は漸く持っていたカップをテーブルにおろした。その手が微かに震えている。

「少し、きつく言いすぎましたね。なんでもいいんですよ。覚えていることを、いってください。」
「…どこかへ、行こうとしているんです。小さい俺がどこかに行こうとしているんです。なのに、途中で嫌なことが起こるんです。それが何かは解らないですけど、何か嫌なことが起こるんです。それだけです。」

彼は顔を伏せたまま起こさない。顔を覆う、その手はまだ震えていて、でも怖くて声もかけられない。震える手の向こうから、彼は言う。絞り出すような声で。


「いいですか?その夢は忘れなさい。」
「でも、何度も同じ夢を見ているのに。」
「何か、不安なことがあるのでしょう。それだけですよ。心配することはありません。…心配することはないのです。私も、似たような夢をみたことがありますよ。」

言いながら、少しずつ落ち着いたらしい彼は一度大きく頭を振って、それから顔を起こした。その表情はもうもとの彼に戻っている。テーブルに零れた紅茶を拭いて笑う。

「その話題はもう止めにしましょう。ケーキでもいかがですか?」

それでも、その笑顔がどこかぎこちなく見えた。