「あの鳥みたいに空を飛べたらいいなぁ。」
幼いころ、自分よりまだずいぶん大きかった彼の手を引いて、空飛ぶ鳥を指差しながらそんなことを言ったことがある。別段本気でそんなことを思っていたわけではない。彼の気を引きたかったというのが大きな理由だった。彼は俺の手を引きながら笑った。俺の言葉に笑った。笑って、そして言った。
「お前なら、できる。」
彼の目は澄んでいて緑で、夕日を受けて酷く綺麗だった。あんな目になりたいと俺はずっと思っていたのだ。
「お前なら出来る。きっとできる。いつかは空だって飛べる。」
「でも、俺には羽がないよ。」
「でもできる、お前は、太陽に愛されて生まれてきたから。」
いまでも思い出す。彼の夕日に光る目と優しい声。なのに、駄目だった。この思い出は苦しすぎる。なぜならその時彼の目は酷く、
酷く、寂しそうだったから。
いつか飛べるその日まで
「解っているよ、解った。はいはい。メリークリスマス!」
かちゃん電話を切れば、そこに広がるのは完全な静寂だ。ため息をつきながら見上げた空に鳥の姿。あれから自分も成長し、イギリスの元を離れ、ここにいる。
(別に、それを悔いてはいないんだ)
むしろ、あれは正しい判断だった。そうだった。だけれど、そう、自分はどうやら彼の思ったような存在ではなかったらしい。
クリスマスも近いが、自分に課せられているのはつまらない決済書類だけだ。ブラックコーヒーに口をつけながらそれに目を通す。株価暴落、ワーキングプア、治安問題。あぁもう嫌になることばかりだ。本当に。空には鳥が飛んでいる。駄目だった。自分は結局まだ空を飛べてはいない。
「太陽に愛されたとかなんだか言われてもこんなもの、だね。」
自嘲するように肩をすくめて、思い出したのは彼の寂しげな目だ。振り払うように頭を振って書類に向かう。彼は俺にお前は太陽に愛されて生まれてきたと、そうよく言っていた。彼はそういうことで自分と俺を比較していた。多分。彼は昔不意に遠くを見て、自分は雨に愛されたのだ、とそういったから。そんなことを呟くとき、彼は酷く寂しそうでどこか消えてしまいそうで、だから俺はその言葉が嫌いだった。だってあのときの俺にはイギリスしかいなかったんだ。だからそんな顔は見たくない。それに、そう呟くと彼は大概その後すぐに帰ってしまうから。だから嫌いだった。
「雨、か。」
鳥の飛ぶその空は曇っている。もしかしたら降り始めるかもしれない。そういえば、自分が独立したときも雨だった。あのとき、彼は雨に打たれて、濡れながら泣き声で呟いた。雨は嫌いだ、と。何故自分は雨に愛されたのだ、と。彼は雨が嫌いだった。おそらく、それに愛された自分も。
書類を机に放り投げて、俺は窓を開ける。吹き込むのは冷たい空気。イギリス、俺は飛べなかったよ。結局、飛べなかった。太陽に愛されていようがいまいが、そんなことは関係なかったよ。それでも、一つだけいえることは、俺は、
「俺は、君の言葉で自分を好きになれたよ。」
君に言えばよかった。雨も素敵だといえればよかった。本当は雨の中、去る君に少しだけ言いたかった。行かないで、昔みたいに縋って、それは無理な話だったけれど。
曇った空は自らの重さに耐え切れず、雫を零して泣く。空の涙は地に落ち、
「雪・・・」
見上げた俺の目に雪が映る。灰色の空から落ちるそれ。手のひらに乗る一瞬の白。あぁ、雨の多い彼の家にも雪は降っているのだろうか。手のひらに白を溶かしながら、願う。彼の家に柔らかな雪が落ちていますように。彼の家に白がふりつもりますように。彼がいつか、雨を愛せますように。自分を愛せますように。
頬に雪を染み込ませながら思う。やっぱり、俺は雨が嫌いじゃない、と。
「青い鳥症候群」を書くときに、同じネタで英米も思いついていたんです
捨てがたかったので、こっちもアップしておきます。似たネタ二つすいませんでした。