欲張りのアリア
はぁ、はぁ、
荒い息が耳について離れない。
よろよろとスペインは歩く。足元に赤い水滴。あぁ傷が開いたかもしれへん、と小さく呟いて目をつぶる。
まさかここまでされるとは思わなかった、というのがスペインの正直な感想だっ
た。ふらつく足は傷だけが原因ではないだろう。
腰が、いたい。
『あーあー世界一の強国が落ちぶれたもんだねぇ』
フランスがスペインに戦いをふっかけて来たのは、イギリスに負けた少し後だっ
た。
昔だったら蹴散らしていた相手は、しかし今のスペインにはどうしようもない相
手。スペインは深めの息を吐く。
いつのまに俺は、こんな出遅れてたんやろか。
『あれだろ、お前イギリスんとこの輩にヤられたんだろ?』
『…んなことゆうて楽しいか?』
『いや、別に楽しかねぇけどさ』
足元が、不確かだ。
目に映る赤。血が、
『お前んとこのちびにばらされたくなかったらいうこときけよ。』
ロマーノだけには、しられたくなかったんよ。
よろよろと歩くスペインの足に何かが突っ掛かる。
「っちょ…!」
それはなんてことない小石。しかし、それで崩れた体勢を立て直す力は今のスペインに
は残されていなかった。
どさっと体が地面に倒れる。舞う砂埃。砂利が傷口に食い込む。くっ…っと喉奥
で篭った声。
あかん、あかん、立てへん。
焦れば焦っただけもがくばかりで何もできない。
耳元に小さな足音。だれか、来たんか?
逃げなくては、とスペインは思う。足が、動かな、
「…スペイン兄ちゃん、どうしたの?」
ふと、スペインの耳に聞き慣れた声が響いた。
ふわり、風が吹いて届くのは甘い香。
「あぁ…なんやイタちゃんやったかぁ。」
顔をあげる。そこに揺れていたのは甘い茶色。
にこり、微笑んだのはイタリアだった。
スペインの肩から力が抜ける。ふわふわした笑顔は妙に人好きするから。
「兄ちゃん、大変そうだね。」
「あー…そうなんよ、大変なんよ。…せや、ちょっと手、貸してくれへん?起き
上がるの、手伝ぉて欲しいんや。」
うんわかった、としゃがんだイタリアが手を出してくる。
ここに来たのがイタリアでよかった、とスペインは思う。こいつやったら言うこ
と聞いてくれるやろ。
「ほんますまんなぁ、イタちゃん」
「いーよ、それより兄ちゃん何してたの?」
「ちょっと戦いしてん。」
「…えーほんと?」
「ほんとやって。」
伸ばされたイタリアの手を、笑ったままのスペインが握る。
「…嘘吐き」
それは、突然だった。イタリアがいきなり立ち上がる。そして同時に繋がれたス
ペインの手を勢いよく引いて。
少し起き上がりかけていた体がそれにつられて地面にたたき付けられた。赤い水
滴が地面に染んで地面を赤く染める。
傷が、
「な、なにしてん…や…イタちゃ…」
「俺、嘘吐きはきらい。」
なんとか顔をあげたスペインの目に映ったのは、
無表情な、イタリアの顔。
「…本当はフランス兄ちゃんとヤってたくせに」
かちゃり、と聞き慣れた、でも聞きたくはない音がする。スペインは目を見開い
た。
目の前に黒い影。
銃、口
「な、な…やめぇや、冗談は、」
「冗談じゃないよ。ねぇ、スペイン兄ちゃん。」
イタリアが笑う。
否、
ちゃう、スペインは頭を振った。ちゃう、目が、笑っとらん。
「ロマーノ兄ちゃんだけじゃたりないわけ?フランス兄ちゃんまで取ってくの?
嘘までついて?ねぇ、」
安全バーが外される。
「フランス兄ちゃんは俺のなのに…かえしてよ…」
「ちゃう、ちゃうって!!そんなんやないから」
「違わないじゃん、そういえばオーストリアさんとこにも来てたよね。そんなに
俺から全部取って行きたいの?とってかないでよ。かえして。」
指が引きがねにかかる。
あかん、目が、本気や。
「ちょ、本当待ってって…!」
「またない。俺、嘘吐きは嫌いだもん」
引きがね、が
思わずスペインは目をふさいだ。
『打たれる…!!』
かしゃん
固く目をつぶったスペインに、しかし予測した衝撃はなく。
代わりに響いたのは軽い金属音。…空砲?そっと目を開ける、にこにこと笑うイタリア。
「じょうだんだよー。なにー本気にしたー?」
「あ…なんや…」
す、とイタリアの手がスペインの目の前に差し延べられた。
一瞬の躊躇、それからその手を取る。今度は優しく起こされた。
「大丈夫?」
「まぁ、な…あーもう行くわ」
足がまだふらつく。でもひらひらと手を振ってスペインは歩きだした。ここから
逃げたいと思った。怖かった。負けることより、痛むことより、ただ、
「ねぇ、スペイン兄ちゃん」
後ろから声がする。
「ロマーノ兄ちゃんも、フランス兄ちゃんも俺のだからね」
怖かった。弟が。
イタリアの声に温度はない。目の前が揺れている。それが自分が震えているから
だ、とスペインが気付くのにたっぷり30秒かかった。
やっとの思いでスペインが振り向いたとき、そこにイタリアの姿はなく。空には
いつの間に出ていたのだろうか、ただ、丸い大きな月だけが。
イタリアはスペインの歩いて来た道を引き返すように歩いていた。
顔には笑み。元から弾など入れていない銃は酷く軽い。こんなものでも脅しはで
きるんだねー、と小さく一人ごちて。
さっきのスペインを思いだす。
あれ、ちょっとやり過ぎちゃったかもー
「でも、スペイン兄ちゃんも、俺のだもんねー」
俺、よくばりさんなの。
空には満月。
イタリアはそれに向かって微笑んで、ゆっくりと歌を口ずさみだす。
しん、と静まった夜の闇に美しいアリアは溶けて消えた。
これからイタリアはフランス兄ちゃんを誘惑しにいきます←