溶けゆく安堵
昔から失うのは嫌いだった。手放すのが嫌いだった。だから雪ダルマ式に大切なものが増えていく。失えないものが、それが一気に崩れるとしたら?怖い、怖い、酷く怖い。失いたくない。けれど確実に自分は失い始めている。なにを?簡単だ。自分自身を。自分が消える、消える、消える。今日会いにきた客は俺を素通りしてドイツの奴のところへ向かった。最近こういうことが多い。広いリビングに一人取り残されて初めて俺は悟った。
(自分は、要なしなのだ)
必要なくなった国の末路がどうなるのかわからないほど馬鹿じゃない。怖い、怖い。失うのが怖い。手に入れたものを失うのは昔から嫌いだった。だから。
「それで、どうして私のところにきたのですか?」
黒髪を揺らして、大切な彼は笑んだ。俺は言葉に詰まる。失いたくなかった。いろいろなものを手放しなしたくなかった。それでも様々なものが自分の手からこぼれていく。彼もいつかこぼれていくのだろうか?それを考えたら怖くなっただけだ。説明できずに詰まる俺に彼は笑った。彼はいつも微笑んでいた。それが多くのものを抱え込みすぎた俺の救いであり、そして、そうそれ以外にもなにか、深く心を浸食されるような。そんなもので。彼は笑う。微笑みながら言う。
「どうしてほしいですか?私に何を望みますか?貴方がもし貴方の言うとおり消えるとして、どうしたらいいですか?同情ですか?慰めですか?どうしますか?」
彼は笑う。俺は首を振った。違う。そんなものを求めてはいない。けれどだから何を求めているのかときかれたらそんなことはわからない。怖かった。消えるのが、失うのが、手から全てが零れ落ちるのが。『怖い』つぶやいた俺に彼はまた笑う。縁側に座っていた彼が立ち上がった。庭先で立ちすくむ俺へと向かうその黒髪からは甘い香が。
「それとも貴方は私に一緒に消えてほしいんですか?」
伸ばされた手は骨が浮くように細かった。頬に触れる手は冷たい。彼の手はいつもひんやりとしている。緩く首を振った俺の頭を彼が抱え込む。着物の緩い袖に包まれて感じたのはどこか懐かしいような感覚。彼からは甘い香が漂い、波のようなリズムで彼の心音が自分の耳に届いた。腕の中からは彼の表情は見えない。けれどきっと彼は笑っているのだ。大丈夫ですよ、そう聞こえたきがした。俺は目を閉じる。彼の黒髪が揺れる様を思い浮かべた。全てを溶かし込んだような黒をまとって彼は生きる。全てを溶かしこんで彼は生きる。自分もきっとその中に溶け込むのだ、と不意に思った。たゆたうような時は過ぎる。顔を上げて彼に口付ける自分にもう不安はなかった。黒の髪は揺れる。
そうして全てを受けいれた彼の手は今日もひんやりと冷たいのだ。