モラトリアムは終りが近い


あぁ、そう、俺にだってこうなることがわからなかったわけじゃあない。自分を守ってくれた彼にもう前ほどの力はないことがわからないほど俺はもう子供じゃない。それでも俺はここを離れたくなかっただけ、それだけ。俺の前で彼はいつもどおりに立っている。でもその顔には微かに影が差していて、俺はそれが酷くいやだった。これは俺の甘えだってそんなことはわかっているけれど、俺にとって彼は唯一の強い存在だったから、そんな顔はしてほしくなんかなかった。それでも彼は口を開く。言ってほしくない一言をいう。

「お別れですよ。」
「・・・いや、です。」

首を振る俺に彼は困ったように指でコンコンと机を叩く。あぁ、解ってはいるんだよ。こんなこと言えば困るのは彼だということ。でも、それでもここは俺のたった一つの家で、だから。

「出て行きたく、ないんです。」
「・・・甘えは、いけません。」
「・・・でも、」
「駄目です。」

俺は手を伸ばす。その手が彼の服の裾を掴む、その一瞬手前で彼はその手を緩く払った。そして、彼はそのまま手を俺の頭に乗せる。頭をなぜていく手。目を閉じた。思い出すのは幼い記憶。あぁ、そう、昔、自分がまだ彼の腰ほどにしか背のなかった昔、夜道を歩くとき彼はいつも俺にこういったのだった。『はぐれてはいけませんよ。』いつもは俺をけして甘やかさない彼がその時ばかりは手をつないでくれて、それで本当は夜道を歩くのは好きだった。彼の体温に触れることのできるそのひと時が好きだった。その時少しだけ上がる心拍数の感覚が好きだった。
目を開くと、こちらをみている彼と目があう。その瞳は深く、深く、沈むような色をしていて、ぼうと見つめている俺に彼は緩く笑った。そんな顔は初めてだった。彼は軽く身をかがめて、俺は反射的に目をまた閉じる。ゆっくりと唇に何かがふれた。その感触は深くふかく俺を支配していく。暖かくて、柔らかくて、甘く、そして優しい。頬を彼の手が包む。耳元で、彼は言った。

「お別れです。しかし、これは始まりでもあります。意味は、解りますね。」

耳元に彼の吐息がかかって、でもそれはこそばゆいというよりむしろゾクリとする何かを秘めていて、俺は否応なしに頷くしかかった。それを見届けたらしい彼の体温がゆっくりと遠ざかるのを待って、目を開ける。彼は笑っていた。その笑顔はどこか影があり、そして魅力的でもあって、そう、初めてみる顔だった。俺は気付く。前に俺にはぐれないように念を押した彼が、今は一人で歩くように言っている。それはけして拒絶ではなくて、お別れではなくて、そう、今、自分は認められたのだと。一つの存在として、彼と肩と並べられるだけの存在として。彼の瞳を見つめかえす。彼の瞳は深くしずみ、そして俺は知った。彼の瞳のその深くは深い紫をしていること。それをまた見られるだろうか。一つの存在として、彼のとなりで見られるだろうか。唇の感触が消えない。幼いころ彼の手を掴みながら感じていたとりとめのない思いに今なら名前をつけることが出来るとそれだけは自信を持っていえる。そしてその思いがあるなら、あるなら、きっと大丈夫。

俺は、顔を上げた。

そう、いまこそ旅立ちのときだ。



それでね、いつか、この思いを伝えるから。だから待っていて。