一か月同居生活
5日目、夜
「音楽でも聞きに行くか?」
そんなことをイギリスさんがいきなり伝えてきたのは2時間ほど前のこと。
朝のお詫びだ、という彼は問答無用で私を車におしこんだ。
かたかたと揺れる車の後ろ座席にのりながら、きらきらと輝く街を見る。
隣で、イギリスさんはなんだか落ち着かないように黙ったままだから、私もこれくらいしかすることがないのだ。
そんなに私だって饒舌な方ではないのですから。
後ろへと流れ去る景色は光に満ちている。
最近凄いスピードで近代化が進んでいると称賛されている東京だって、ここまで光に満ちてはいない。
差を感じる瞬間だ。それは微かな嫉妬と焦りとそして、そんな進んだ国が自分を相手にしてくれるのだという逆説的な自信を産む。
車のスピードが落ちてきている。もう着くのだろうか。
振り返った先で、金色が揺れていた。
「着いたぞ。」
ロンドンシティの中心に位置するホールにあふれるのは着飾った人びとの群れ。
入口から吐き出されまた呑み込まれゆく。
その大きさと人の波に覚えたのは眩暈。すぐ横を通りすぎていった女性の香水の香りに酔ってしまいそうだ。
大丈夫か?差し出された手を取るのをためらってしまい、そんな自分が嫌になる。
微かな劣等感。仕方ない。この差を埋めるためにここまできたのだ。
「大丈夫です。申し訳ありません。」
手を引かれるように会場に入る、その一瞬にちらりと近くの看板に目を遣る。
演奏内容は、モーツァルト、らしい。
「人が多いですね。」
席に座りながら、隣に腰かけようとしているイギリスさんに話しかける。
あぁ、と外套を後ろに控えた係員に渡しながら、彼は答える。
そういえば、ここは一等席なのだ。係員が私にも手を出す。慌てて外套を脱いで渡した。
どうにも慣れない。なにもかもが自国とは違うから。
「ここは、いつも人が多いんだ。…大きな劇場だしな。それに、」
居心地の悪さに落ち着かない私のそばで、彼は静かに語り続ける。
「イギリスじゃあなかなか良い音楽なんてきけねぇし。」
ぽつり、とこぼされた言葉に私が反応する、その間もなく、ブザーが鳴り響く。
開幕だ、とイギリスさんの声。暗くなる会場。
手元のパンフレットに目を落とす。
『今日の演奏者は、ウィーンの最高楽団に所属しており、』
ウィーン、ですか。
ゆっくりを音楽が始まる。ちらりと見遣った先で、金色がどこか物憂げに見えた。
「ここで、10分休憩なんだ。」
心地よい音楽が波が引くように終わり、私はたゆたう波に揺られるような感覚から漸く脱する。
頭を軽く振って、見上げると、見慣れた金色が大きく伸びをしているところだった。
そういえば、明るくなっている。
「モーツァルト、気にいってくれたか。」
「はい、とても素敵な音色でした。」
それなら良かった、とまた深く椅子に腰かけながら彼は呟く。
その後ろ姿を見ながら、ふと私は思い出す。
先ほどの、少し陰った表情。
「…この演奏の方、オーストリアの出身なのですね。」
「…まぁ、な。」
呟くような声。
しん、と静まりかえったような空気。彼はどこか遠くを見るような目で続けた。
「俺んちの奴…俺もだけど、絵とか音楽とかそういうの得意じゃないからな。」
『イギリスじゃあなかなか良い音楽なんて、聞けねぇし。』
不意に蘇る先ほどのセリフ。
あぁ、私は不意に気づいてしまう。
彼は、彼はまた、私と違うどこかで、同じ気持ちを感じているのではないか?
この世界でも位1、2を争うほど発展した街の明かりの中で、彼もまた、あの焦りとも嫉妬とも似たあの気持ちを。
彼の隣の席に座る。
沈み込むような椅子にも、きらめく明かりにも、なぜかもう居心地の悪さは感じなかった。
ぼんやりとした彼の表情が、なんだかとても愛しいと、不意にそう思ってしまって。
「そんなこと、ありませんよ。」
私は彼の方に微かに体を傾けながら、そんなことを話すのだ。
「マザーグースでしたか?あの童謡、素晴らしいと思います。一度、まとめて聞いてみたいと思っていたんです。」
彼は驚いたようにこちらを向いたから、私も振り向いて、小さく笑う。
そんな私をどう思ったのかは知らないが、彼もそのまま薄く笑った。
ステージの方へと顔をむけながら、小さく彼は口ずさむ。
「Humpty Dumpty sat on a wall.Humpty Dumpty had a great fall♪」
遠くでブザーの音が聞こえる。
後半が始まるのだろう。
口ずさみながら、笑った彼に私は小さく拍手を送る。
「とても、良い音楽だと思います。」
すう、と照明が落とされ、あたりが暗くなる。
演奏が、始まるようだ。
マザーグースの原曲が聞いてみたいです。
拍手、ありがとうございました!