1918年の幻惑
晴れた俺の家は、我ながら奇麗だと思う。
街中を流れるセーヌ川。きらきら光る水面。そして、
その水辺に、ヤツは座り込んでいる。昨日と同じように、そしてたぶん、明日も
同じように。
「―イタリア!」
「うぇ?」
名を呼べば、イタリアは驚いたように顔をあげた。小首をかしげたポーズはイタ
リアがよくするやつだ。
「なにー兄ちゃん?」
なに、ときかれてしまうと、なにもないんだよな。
適当に言葉を濁して、隣に座る。そんな俺にイタリアは口を開きかけた。
けれど、一瞬の逡巡のあと言葉を飲み込んでしまう。結局、黙ったまま川に向き
直ったあとに、会話はなく。
きらきら
川の水面は光を反射する。何もせずにこんなんばっか見てて楽しいのか?
「ねぇ、兄ちゃん」
「なんだー?」
珍しい。こいつは常に騒がしくて煩いが、一度思考にはまると自分の世界に閉じ
こもってしまうのに。
「オーストリアさんが、降伏したってほんと?」
イタリアが顔をあげて俺を見た。
何の思索もないただ純粋なだけの視線は、疑いに満ちたそれよりも、俺には居心
地が悪い。
ふいと視線をそらす。これが手一杯
「あぁ…そうだな。まだドイツは頑張ってるけど、そろそろあいつも降参だろ。
」
俺らの勝ちだぞ、と続けようとして、そこは言わずにおいた。
イタリアは、そう…、と一言呟いて黙り込む。その手首に、不自然なリストバン
ド。
『兄ちゃん!!なんであんなことしたの!?』
あの日、俺がイタリアを連合国側に引き抜いたあの日、俺はイタリアが本気で怒
るのを初めて見た。
『俺は、ドイツを裏切りたくなんかないのに!それは兄ちゃんも解ってたはずな
のに!!!なんであんな風に俺の上司に言ったの!?』
確かに、やり方は多少強引だった。ずっとあいつの上司が欲しがってた土地をち
らつかせて、こちらへ引きずり込んだんだしな。
でも、だ。
でも、
『どうしてそんなドイツにこだわんだよ。別に恩もなにもねぇだろうが!』
その瞬間、ぴたり、とイタリアの動きが止まった。
止まってそして、
ぽたぽたぽた
その目からこぼれたのは、涙。
イタリアが、脆いことは、この俺が一番解っている。そして、その脆さをなんと
か自己解決しようとしたとき、こいつがとる
であろう行動だって、予想はついたけれど。
腕に巻かれた、白いリストバンド。そこには微かに、赤が滲んでいた。
『ねぇ、兄ちゃん聞いて!俺ね、すきなひとができたの!!!』
イタリアがそう言いながら俺の家に駆け込んできたのは、あの日の一か月ほど前
のこと。
俺は、そりゃよかった、とか落とし方を伝授してやろうか、とか適当にあしらっ
てそれでもこいつはにこにこと笑って。
あぁ、いまなら、その相手も涙の意味もなんとなくは解るんだがな。
いや、もうあの時、俺にはわかっちゃいたんだ。こいつは解りやすいんだ、よく
みりゃわからねぇわけはない。
それでも、俺はあぁするしかなかった。
こいつがどれだけ、
あのいけすかねぇゲルマンが好き、でも。
「悪かったな。」
「?なにが?」
いつもは返事しないくせに、こんな時ばかりイタリアは振り向いた。
「いろいろと。」
返事をしないわけにいかねぇし、ごまかすように返す。あいつはリストバンドを
指でいじって。
「…兄ちゃんはわるいことしてないよ。俺こそ、ごめんね。めいわくかけてるね
。」
リストバンドの赤が広がっている。傷口が開いたのかもしれねぇな、といやに冷
静な頭で考えて。
この赤が、この赤が、俺のした結果だ。
『おい。お前、イタリア引き抜こうとしてるんだって?』
『んあ?あー…まあな?ほら、あいつはおちゃらけだからな、すぐ引きぬけるだ
ろ』
『んな奴引き抜く必要ないんじゃないか?叩けばいいだろ。同盟国としてさ。』
イギリスの提案は正しいと俺だって思う。こいつは戦闘に役立たないし、兄弟の
義理はない。
ただ、
今回の戦争はヨーロッパ全体を巻き込んだものになるだろうと、そう俺は踏んで
いた。そして、たぶん、俺らの側が勝つ、とも。
こちらには(むかつくけど)強大な海軍を持つイギリスがいるわけだし、ロシアや
らアメリカもこちらにつくだろう。負ける要素はない。
だけど負けた国はどうなる?ゲルマン二人やらトルコはいいとして、イタリアは
?
今回は、相手が俺やスペインやなんだかんだ言って甘いオーストリアじゃねぇん
だぞ。
へたしたら、
消される。
それはとっさの判断だった。イタリアを敗戦国にはできない。なんとかして、こ
ちらに引き抜かなくては。
もういっそそのためなら、
手段を選ばずに。
イタリアは黙ってセーヌ川の流れを見つめている。
あの日、これ以上ないというくらいに叫び散らしたあと、イタリアがこのことに
ついてなにか行動することはなかった。
ただ、こうして何をするでもなく、戦うわけでもなく、セーヌの流れを見つめて
。
そのころから、こいつの手に、白いリストバンドがつくようになった。
コイツは俺の側について、勝ち組になって、そして死なずにここにいる。
そのかわりに、こいつは自ら手首と腕を血に染める。
もしかしたら、俺のしたことはコイツにとってとてつもなく酷いことだったのか
もしれない。けれど
「…そろそろ昼だし、なんか食うか?俺が作ってやっから。」
「え?あ、いいのー?」
こころの傷とからだの傷と、どっちが辛いかなんてそんなことはしったこっちゃ
ねぇよ
久しぶりに楽しそうな表情を浮かべたイタリアの笑みは、やっぱとても奇麗で。
この汚れた世界には似つかわしくないほどで。
こいつが死ななければ、もうどうだって良い、と
思う自分は、まだ確かにここにいた。