それは本に挟まれた、遠い日の思い出。
一ヶ月同棲生活
10日目
本を机に伏せて置いて、私は小さく溜息一つ。
この前の日曜日に買ってきた本は、政治学の本だ。
帝国主義とその効用、それから繋がる自由貿易体制について書かれた内容はとても興味深く、学ぶことも多い。
…のだけれど。
大きく息を吐いて、椅子の背もたれに寄りかかって伸びをする。
上のほうに取り付けられた明り取りの窓。そこからもれる光に目を細めて。
…難しい。
そう、難しい。買った日から連夜、徹夜して読み進めたにも関わらず、いまだ一章も終わらない。
徹夜のせいで、今日は朝ごはんにまで寝過ごしてしまい、恥ずかしい思いをした。
持ってきた英和辞典で引きながらいくのだが、いかんせんうまくいかない。
省略や倒置の多用された文体は今まで自分が見てきた読みやすい英語とはまるきり違う。
イギリスさんは訳をしようか、と言ってはくれたけれど、それを頼むのは気が咎める。
ただでさえ居候させてもらっているのだし、それに。
…英語力には多少自信があった。だからこそなおさら、悔しいから。
『本を読むなら、静かなほうが良いんじゃないか。…今日は、家事もしなくていい。』
そういってイギリスさんが貸してくれた書斎は、大きくて少しほこりっぽい。
イギリスさんは、自室で仕事をすることが多いから、ここはあまり使わないのだそうだ。
吹き込む風はどこか本の香りを漂わせて、あぁ、この雰囲気は嫌いじゃない。
申し訳ない、と思う。自分に気を使ってくれているのだろうから。
上に取り付けられた明り取り用の窓は凝ったデサイン。
暖かな陽光に包まれて、かくん、と頭が一回落ちる。
あぁ、いけない。軽く寝ていたことに気づき、頭をふる。
少し、休憩を入れるべきなのかもしれない。疲れが溜まっている。
伸びをして、書斎の本棚に目を遣る。そこには、たくさんの本が挟まっている。
政治学、経済学に始まり、歴史、文学、はては民俗学まで。
博学な人なのだ。彼は元々芸術などは不得意で、そのことを彼は気に病んでいるようだったけれど、
しかし、そのコンプレックスが彼をここまで勉学に駆り立てているのかもしれないと思う。
分厚い背表紙の並ぶ本棚、そこにふと、違和感。
背もたれから、体を起こし、本棚へと顔を寄せる。
なんだろう、この本は。
分厚い本の間に埋もれるようにして挟まれた薄い大判の本。
埃にまみれた背表紙の小さな黒い文字を目で追う。
「ピーターパン…?」
埋もれた背表紙はもう何年も取り出してないようで、背表紙も消えかかっている。
ただ、それが童話らしいということは解った。
背表紙に指をかけて、引っ張る。強い抵抗。かなり力をいれてひっぱると、びし、と嫌な音を立てて本が抜けた。
表紙には、空を飛ぶ男の子の絵、の上から派手な落書き。
これを持っていた子はどうにも元気すぎたようだ。赤いクレヨンで殴り書きされた落書きが表紙をとんでもないものにしている。
思わずもれたのは笑み。
椅子に深く腰掛け直して、本を開く。
長い間開いても無かったのだろう。ぱり、と音を立てて開いた本は少し黄ばんでいた。
絵と簡潔な文章で語られていく童話は、大人にならない男の子が冒険をするという話。
これくらいなら、簡単によめる。息抜きにちょうどいいだろう。
ぱらぱらと流し読み。ページをめくった、そのとき、
ひらり、床に落ちたのは白い封筒。思わず手が伸びた。
本に挟まれていた封筒は押しつぶされて平べったい。
表を返す。白い封筒の表に、かすれたインクで殴り書きがしてあった。
『イギリスへ』
どきん、と心臓が高鳴るのが解る。
『To Britain』そう書かれた手紙、それはあまりに幼稚な字体で、だからはっきりとはわからないのだけれど。
その字に残る、微かな癖に、見覚えがあった。
軽く斜めに歪むようなBの癖字。
震える手で、本をめくっていく。
本の一番最後、奥付のページに、名前だろうか、大きな字でまた殴り書き。
『アメリカ』
「これ、アメリカさんの、本なんですか?」
だとすると、これは、イギリスさんに当てた、手紙、なんだろうか。
「おい、日本」
声がする、はた、と我に返って、声のした方に振り返った。
ドアの向こうから、彼は話しているらしい。閉まった扉の向こうから声。
「な、なんでしょう?」
「…休憩をしたらどうかと思って。紅茶、淹れたしな。」
「あ、き、休憩!いいですね、そうしましょう。」
何を慌てているんだろう。私はよく解らないまま、立ち上がる。
一瞬逡巡して手紙をポケットに突っ込んだ。
自分がどうしたいのか、それもよくわからないまま。
やっと中盤戦です。